墳丘墓の頂きに建つ「鯉喰神社」
2021年 01月 16日
鯉喰(こいくい)神社にも立ち寄りました。
10代の頃、サイクリングで一度だけ行ったことがありました。
背後には、足守川の土手が見えます。
吉備津神社から命の放った矢は、鬼ノ城から温羅が投げた岩と
空中でぶつかり合っては落ちなかなか勝負がつかず
矢と岩が落ちた場所といわれているのが矢喰宮(岡山市高塚)でしたが
そこで命(みこと)は、強い弓を使って一度に二本の矢を放ちます。
一本は温羅の投じた岩とぶつかり落下しますが
もう一矢は、温羅の左目に命中します。
温羅の目から吹き出した血潮は血吸(ちすい)川に流れ
下流の赤浜まで真っ赤に染めたといいます。
温羅はキジに姿を変えて山中に隠れ、命は鷹となって追いかけ
そこで温羅は鯉に化けて自分の血に染まった血吸川に逃げ込みます。
すぐに命は鵜となって鯉に姿を変えた温羅をこの地で食べちゃいます。
これが鯉喰神社と呼ばれる由縁です。
数年前、盗難に遭ったそうですが売り払われているのが見つかり
無事、戻ってきたそうです。
社殿と同じ頃の物なら320年も経っているハズ。
奥に見える燈籠も年季が入っています。
正面には建物があり、そこを避けた奥まった先にあります。
吉備津神社の廻廊を思い出します。
明治期までは、仏さまもお祭りしていたのでしょう。
この鯉喰神社の700㍍ほど南にある楯築遺跡にある
巨石の一部にそっくり~!
実はこの神社は、弥生時代の墳丘墓の上に建つそうです。
なんだか楯築遺跡の墳丘墓と繋がりがありそう…と思ったら
帰って調べてみると楯築遺跡の上にあった楯築神社は
大正時代に鯉喰神社に合祀されたそうです。
その時、安易に一緒に持ってこられた石なのか?
それとも楯築遺跡のように、この墳墓の頂きにも
巨大な石がストーンサークルのように囲っていたのか?
古代の姿をあれこれ想像してみるとワクワクします!
崩れ落ちていました。
古代3世紀から連綿と続く歴史ある土地の上に築かれているのに
神社の敷地の中には情報が少ないのが残念です。
弥生時代の特殊器台・壺の欠片もないかと歩いてみましたが
そんなに簡単に見つかるわけがありませんね~。
楯築遺跡の墳墓横を眺めながら帰ります。
(2020.12.13)
☆.。:*・★.。:*・☆.。:*☆.。:*・★.。:*☆.。:*・
第五回プラチナブロガーコンテスト開催!
「旅行・お出かけ部門」に応募します。
「地球の歩き方」特派員ブログも
良かったらご覧ください。
👇
ブログランキングに参加しています。
読んだよのしるしに
下の画像をぽちっ↓と押して頂けるとヒジョーに嬉しいですーー!
にほんブログ村
ふむふむ・・へぇ~~~って読みました。
お写真もきれいです。
素敵なレポートをありがとうございます。
最後まで読んでくださりありがとうございます。
小高い丘の上にある小さな神社で
日本遺産の一つとして、訪れましたが
墳丘墓として貴重な遺跡でした。
神社があるので、未発掘で詳しい事はわかっていないようですが
学術的にも貴重な近くの墳丘墓の石と似たものがあったので
備忘録のつもりで、長々と書いてしまいました。
いつも詳しく案内してくれてありがとうございます。
2度目の探訪でしたが、じっくりと見て回ったのは初めてでした。
墳丘墓の上に建っていることすら今回、知ったばかりです。
神社だと思っていた場所が、実は元々は、古墳や墳丘墓である場合が多くありますが
ここもそのひとつでした。
車は入口前に何とか1台停められるだけのスペースがあります。